縁起・沿革
常久寺は、「神護山(じんござん) 快楽院(けらくいん) 常久寺(じょうきゅうじ)」と号する真言宗豊山派(ぶざんは)、府中市にある妙光院の末寺です。
妙光院の門末世代記によると常久寺の開山は未分明ですが中興は永禄7年(室町時代・1564年)とあります。
現存する最古の資料として常久寺にあった板碑に応永29年(室町時代・1422年)のものが記されていることより、おおよそ600年の歴史があります。
常久寺は常久村(つねひさむら)をはじめとする、土地の人々や土地の神を護るために建立されたお寺と伝えられます。そのため、現在の地に移るまでは常久寺と常久八幡(つねひさはちまん)神社は同じ境内に建立されておりました。
もともと常久寺は、府中市小柳町の多摩川沿岸(現在の競艇場あたり)にありましたが文禄5年(1596年)と万治2年(1659年)の大洪水により村の大半が流されてしまい、常久村と共に甲州街道沿いの若松町1丁目へと移りました。
そして多摩川沿岸の場所を旧常久(きゅうつねひさ)、移った場所一帯を常久(つねひさ)と呼ぶようになりました。
旧常久の場所は、大正8年(1919年)6月1日に西武多摩川線が開通した際には「常久」という駅名で開設されました。
その後、常久駅は競艇場の建設とともに競艇場前駅へと名称を変えております。
移ってきた甲州街道沿いの地では、明治初期に常久寺の堂宇を常久学舎として使用しており、学校としての役割も担っていました。
昭和末期からは、甲州街道沿いの土地に常久八幡神社と常久公園を残し、市の要望により常久寺は現在の地(若松町5丁目)へと移ることになりました。
常久寺の本尊である不動明王は、宝暦13年(1763年)に大仏師田中播磨義知(たなかはりまよしとも)氏によって造立されたものです。
甲州街道沿いにあった頃の常久寺では、明治時代に落雷による火災が起こり本堂の一部は不動明王像と共に焼失しました。しかし、焼け落ちた本堂の地面から藁(わら)に包まれた状態で別の不動明王像が見つかりました。
当時の信者らが、大切な本尊様を万が一に備え藁に包み地中に埋めたのではないかと考えられます。焼失した不動明王像は御前立ちとして立派に役目を終え、現在の本尊不動明王像は当時の信者らの大切な思いと共に本堂に安置されています。